あみ武親方 小 島 武 蔵  


 
寄せちのこと

昭和25年ごろ


 私は8人兄弟の一番下でね。あみ弁は一番上の兄にあたります。その兄と二人三脚で投網を打ち始めたのが25、26歳の頃、昭和25、26年のことでした。
 当時はこの江戸川をはじめ浦安、行徳あたりでは網船が盛んで、30隻くらいはあった。セイゴが川にはいる5月頃になると、隅田川で「寄せ打ち」(寄せ網ともいう)をやった。隅田川の人間、押上の人間、荒川の人間、こっち(江戸川)の人間がみんなで協力して、川の両側に船を並べて交互に網を打っていく。お互いの船と船の呼吸を合わせて魚を追い込んでゆくわけです。それはもう威勢がよくて、勇ましいもんでした。


江戸川のシラウオのこと


 終戦後はおもにマルタ(ウグイ)やニゴイをとって商売にしてました。それを天ぷら種としてお客様をおもてなしした。
 昔の江戸川は、水が本当にきれいでしたから、いろんな魚がよくとれた。1月にはシラウオがあがってきたんですからね。 4、5月はアユの子、8月にはボラ、セイゴ。暮れになるとウロッコというウナギの子もとれた。12月の「バチ抜け」が始まると、それを追っていろんな魚が川に入っ てくる。それはもうにぎやかなもんでした。朝起きて川を見ると魚がいっぱい跳ねている。それを見るだけでわくわくしたもんです。
 いまは護岸工事のせいかゴカイやイソメが棲めなくなった。葦原もなくなった。昔の面影はございませんねえ。 


きのこと

昭和40年前後


 昔の投網はすべて手作り。一から網をつくったもんで、投網漁師は網づくりから仕込まれ た。網を編むのは『結(す)く』といいましてね、目の粗い網は1〜3ヶ月で結けますが、 シバエビをとる網となると仕事の合間合間に作って1年半ぐらいはかかる。目が細かくて大きさも4尋(ヒロ)半〜5尋くらいありますからね。シケで漁が休みのときはよく網を結いてたもんです。 
 昭和40年近くになってから既製品の網が出まわるようになり、網を継ぎ足してつくる「つなぎ網」が広まりました。機械で編んだ網で、素材はナイロンテグス。水切れもよく なった。それ以前の網は絹や麻、木綿でしたから水を含むととっても重く、網を寄せるのにずいぶんと力がいったもんです。 
 ところで、いまの若い人には網の修理はできても、結くとなるとむずかしいでしょうね。私はじっとしているのが嫌いなもんですから、ひまさえすればミニチュアの投網をつくっています。小さいながらも本物の投網と同じ精巧 なものですよ。いまはアバリ(網をすく竹製の道具)もメータ(目合いを計る竹製の道具)も、それから作らないといけませんが、網を結く技術は息子をはじめ若いもんにぜひとも受け継いでもらいたいと思っています。投網もわたしらの代で終わりかなと思ってましたが、保存会ができたおかげでその伝統も引き継がれる。本当にありが たいことですよ。

これがメータ こっちはアバリ
 ↑結き込みミニ投網!

 ↑色も自在、カラフルに

 

クロダイのイサブチのこと

昭和20年代


 5月から7月にかけてクロダイのイサブチをよくやりました。これは、エサにシオフキを使って投網を打つやりかたです。シオフキはツブ貝の一種で佃煮なんかにするやつ。それを細かくつぶして、潮がそこっているときにクロダイの寄るところにまく。場所の目印に竹をさしておく。潮が上げて、クロダイが寄った頃を見計らって網を打ちに行くんです。
 終戦後は大きなクロダイがよくとれました。イサブチというのは「餌打ち」がなまったんでしょうか、私ら網漁師は「イサブチ、イサブチ」っていってました。 
 クロダイの漁は南風が強い時期で、1回網を打つと船が風に流されてしまう。打っては戻り、打っては戻りして何度も網を打ったもんです。潮をかぶり 大波にゆられながらの投網打ちで、とにかくクロダイをとるのは大変だった。こんな苦労をしないとクロダイはとれませんでした。

 

大漁自慢 〜夏のクロダイ、冬はメナダ

昭和20年代


 あみ弁の兄貴は腕っぷしも強く、投網の名人でした。体格もよかったので普通の人が4尋(ヒロ)位、大きな人でも5尋ほどの網を使うところ、兄貴は6尋の網でしたからね。 それに8匁(モンメ)の岩を使う。標準が6匁半で、重い錘(オモリ)を使えばそれだけ打つときに腕力がいりますが、水中で沈むのが早いんで魚を捕らえやすい。当時は私も働き盛りで、この兄貴と組んでいたから、とにかくよく魚をとった。他の人が14、15貫(1 貫は約3・75キログラム)しかとれないところ、いつもその倍以上はとってくる。漁師仲間に「おめえら、どこでそんなにとってくるんだ」と不思議がられたもんですよ。1回にクロダイを40貫とったこともあります。40貫というと、客の座るところに魚を並べても、まだ並べきらないほどですからね。 
 あれは昭和27、28年の冬のこと。行徳の三枚洲でボラを60貫もとったこともあります。兄貴は目が強く遠目がきく。ある日、漁師仲間と雑談していたとき、目ざとい兄貴は沖でボラがはねるのを見つけた。「タケゾー、ちょっといってみるか」というもんだから私は櫓で、兄貴は櫂をこいで急いで沖に向かったんです。そのときはほんの10分位の勝負でしたがボラが60貫もとれた。しかもいい型のものばかり。1回の網でボラがいっぱいになってしまったもんだから重くてあがらない。仕方なく網のてっぺんを切ってタモで取り込んだ。あとにも先にもあんなにボラがとれたのはそのときだけでしたね。 4斗樽で2杯はありました。 
 12月〜1月にかけてとれる大型のボラはメナダといい、このメナダのうまさといったらマグロのトロどころじゃありません。とにかく脂がのってうまい。いまの湾岸道路・江戸川の橋げた辺りは昔は葦原でね、水が出るたびに海底が崩れてくぼみができる。 そこにメナダがたまる。そこをねらって兄貴とよくとりにいったもんです。

 

投網はお殿様の

昭和初期


 本家・あみ弁の家は私が4歳のとき旧い家を建て替えましたが、昔の家の一番奥には誰も出入りできない部屋があって、もちろんそこは子供でも、絶対入ってはいけないと戒められていました。
 おばの話だと、そこは殿様が投網遊びのときに使った部屋だといってました。参勤交代のとき、江戸に来た大名の殿様が江戸情緒のお楽しみとしてうちの本家で投網遊びをされた。そのとき殿様がお使いになる部屋なので、立ち入り禁止にしていたというわけです。 

 

競争のこと

昭和20年代


 昭和28年〜30年頃にかけてでしょうか、団体客の主催で競争網をやった。競争網とは、商家の旦那や企業の社長が賞金を出して網打ちを競わせること。この競争網では兄貴と一緒によく1等賞を取ったもんです。いまでも当時の賞状が本家に残っています。

 

投網を打つ


 私らのやってきた投網は細川流の「本振り」というやりかたです。船の上で思いきって体を動かす。網も大きくて川でアユをとるような小さなもんじゃありません。重くて大きな網をまん丸に広げるにはやはり本振りじゃないといけません。
 投網はとにかく足と腰ですよ。腕力だけでは網は広がりません。打つとき足腰をしっかりさせて船の上で踏ん張らないとうまく打てない。何回も何回もやって自分で工夫する。網はすぐにはうまく広がりませんが、何度も稽古をしているうちにコツがわかってくるでしょう。とにかく稽古が大事、投網は体で覚えることです。